昭和41年04月09日  夜の御理解



 今日は、御祈念前にいろいろここからお話をしとりましたもんですから、ちょうどもう御祈念が9時半でした。けれども私本当にあの、なるほど神様が9時半までも、夜の御祈念を引き伸ばしておってくださるということを感じるのですけれどもね。そのそのう、引きのばしとったというのがです、私がそのま、久保山先生とここであのうお話をしよったわけです。
 そのお話の中にですね、「とにかくね、ここでは私の思いに皆さんが一生懸命添うてくださるということ。ね、それがここでは一番だ。」と。ね、結局まーこれはです、私が皆さんには口はったこと言うようでございますけれども、私がここで信心になっとるかぎりです、もう私の願いは、本当に神様の願いだと私は思うんですよ。ですから本当にあの親先生の思いにあの添うということ、ね。例えて私達は今夜その話をしよったんです。たとえばまあ、お客さんが見えたらお茶の一つもあげてくださいと、ね、あげたら私は必ずあの表まで送っていくのが私のこりゃあ流儀だった。
 そういうよう話をしよりましたから遅れたんです。そのお話の半ばにですね、そこから皆いただ、聞かるくらいにちょうどこれをふたつ【とんとん。机のようなものを2回たたいている】とこうおへいぎをかちかち合せるような音が、ここで2回続けてあったんですね。あらぁ今のおいさみは変ったおいさみだったなぁといいよったら、東さんがそこへ参ってきてるんですよ。
 そいけんそのことを私御祈念中にあのどういうようなおいさみだったろうか、今まで変ったおいさみですからね。あのーどういうようなおいさみだったじゃろうかと思ったら、その私が(?)の思いに添うて下さるということが、そのまま神様の思いに添うことですよと、皆さんここでは私の思いに添うことにしてもらったらいいんですよ、ということがひとつなんです。そすと今日は東さんがですね、お父さんの30日祭であるということを忘れてからお参りして来よったわけです。
 ですからその途中でお供え物一つも買わずに来とったけれども、というてここに2つのお供えをさせて頂いてから、あのう30日のもちろん仏教でしておりますけれども、ここに御縁を頂いておりますもんですから、ま、あのうちょうど、亡くなられたときもそうでございましたし、そのうまぁ10日祭10日祭というようにま心を込めてささやかなことですけれども、御霊様のために、東さん、心使うていかれるわけですね。ですからそれは待っておってくださったということと二つだったわけです。
 だから二つ続けておいさみがあった(笑い)それがちょうど、こうおへいぎをかちかちせるというね音だったでしょうが。本当にあのなるほど御霊様があの30分間も待ってから、それを待ってござったということやら、また同時にその中から感じることですたいね。なるほどここで私が信心になっておる限り、私の思いにそのう皆さんが添うて下さるということ。こりゃあもう、そのことがですね。
 やはり、神様の思いに添うことだというようなことを皆さんが思い込まれたらですね、私、特に家族の者なんかは、そこんところに、あの家族の者なら家族の者として、ここで修行させてもらいよるなら修行させてもらいよる者としてのその、おかげの場というかね、そういうものがあらたにそっからでけてくるんじゃないかとこう思う、ね。だから私はそれに私はまた胡坐をかいてですたい、私がその信心になってない、大柄になっていくといや、あそれはあのうどかしりません。
 けれどその皆さんがそれでおかげを落としなさることはない。おかげを落とす、そのときのおとすのは私の方ですよね、きっと。ね、ですからやはりここに御縁を頂いておる限り、やはりあの親先生の思いに添うということ、そのことが私信心だと、いったようなことを只今のことの中から、そんなこと二つをですね、まあの、いろいろその御霊様のこと、そんなことわ思わせて頂いたんです。
 同時に私今日、ちょうど昼を下がろうとしとりました時に、熊本から、二人連れでお参りになりました方がありましたが、奥さんが最近、心臓と肝臓で病院に入院しております。それがそのー、非常に熱心でもあるし、ここにお参りしてくると熱心だった。みなさんも御承知だったでしょうかね。あのしょくださんとい方です。それがあのーおかげを頂いてから、もうだいたい自分で身の回りのことぐらいできるくらいにおかげを頂いております。明日椛目お礼に出るというその前の日に御夢を頂いておるのがですね、
 椛目の先生から人参を頂いた。次にね、あの人参とカボチャを頂いた。それからひとむしというのを頂いた。それを私はひとむしとだれも皆さん知っとられんですか?ひとむしというのと、その三つを頂いたお夢を頂いたとこう言うんですね。そいで、そのことについて御理解を頂きよりましたら、こりゃあ信心させて頂く者だれしもそのここんところに、やっぱひっかかりもすりゃ、それも感じるのですけれどもね。
 おかげ頂かなならんということは、あの人参のおひたしは、恥ずかしい思いをするといったときに、頂くんですね。ですから、信心させて頂きよってですたいね、あん人は叶わん、一にも神様、二にも神様ちいいござるげなばってん、やっぱ自分からだが悪きゃ、やっぱ病院に入院さしちゃったじゃないかと、いわれるのが恥ずかしいと、言う様なことであってはならんって。例えばそういうようなことを言う人があったら、馬鹿とアホでかぼちゃになっとけということをお知らせ頂いた。
 ひともじというのは私ひともうしというのがどういうことかしらんけれども御理解にはですね、まそのま、もじもじした人というようなかんじです。鈍な私ということです。いわゆるあのう、凡夫私ということなんです。ね、凡夫の私のことでございます。信薄き私のことでございますから、ね、これはこのまま神様におすがりさせて頂いて、おかげを頂いたが本当と思うのだけれども、その信が私にはございませんと、まだ、欠けておる。そこであの医者にも頼らななりません、薬にも頼らなければなりません。
 けれども、その頼る薬とても、医者とてもです、神様のおかげを頂かなければできることがございませんのでございますのですから、ね、どうぞ私の信のそこんところは御許し下さいというて、詫びていけという御理解だったんです。ですからね、椛目でよう、もう私にこっそりとその、薬を飲みよるとかね、医者に掛りよるとかいうる人があるんですよ。あれは一つの見栄なんです。ね、
 はぁ、あんた薬飲みよるちゅってから、笑われだんせんじゃろうかといったようなあるからなんです。そげなこっじゃあない、赤裸々に信薄き私、いわゆる、もじもじした私、鈍なる私というですね、いわゆるる凡夫吾という自覚に立たせて頂いて。そこんところをお詫びさせて頂いて信薄き私であることを詫びさせて頂いて、ね、そして後、願うことは願わしてもらう。もしそれを笑う人があるならば、笑われておけということなんです。そんなことを今日頂きました。
   どうぞ。